2019-10-24 第200回国会 衆議院 安全保障委員会 第2号
日米両政府が一九七二年の沖縄返還に合意したのは、実は一九六九年の佐藤・ニクソン会談ですが、この会談に先立って、当時の琉球政府の屋良朝苗主席は、佐藤総理大臣に訴える、このように題する意見書を提出しております。 そこでも、異民族支配のもとで県民が体験した試練と苦しみに触れて、復帰のあるべき姿として、即時無条件全面返還を求めています。
日米両政府が一九七二年の沖縄返還に合意したのは、実は一九六九年の佐藤・ニクソン会談ですが、この会談に先立って、当時の琉球政府の屋良朝苗主席は、佐藤総理大臣に訴える、このように題する意見書を提出しております。 そこでも、異民族支配のもとで県民が体験した試練と苦しみに触れて、復帰のあるべき姿として、即時無条件全面返還を求めています。
このような中、米国も妥協せざるを得なくなり、一九七二年の復帰に先立つ一九六八年十一月十日、初めての行政主席選挙、主席公選が実現し、屋良朝苗氏が初の公選主席に選出されました。このときの投票率は八九・一一%に上りました。一九六八年、私は高校二年生でしたが、復帰の四年前まで、沖縄では県知事選挙に当たる行政主席の選挙権すら認められていなかったことを是非改めて知ってほしいと思います。
それはまた、当時の琉球政府の屋良朝苗主席が政府に宛てた建議書を携えて羽田空港におり立った、そのときであります。一九七一年十一月十七日のことです。 その後の十一月二十四日、強行採決に抗議して、瀬長、安里両議員、当時の社会党と共産党が欠席するもとで衆議院本会議が強行され、協定は可決、参議院に送付されました。
初の公選主席で沖縄返還の課題に取り組んだ屋良朝苗主席は、政府に提出を用意していた建議書に、次のように述べています。 アメリカは沖縄に、極東の自由諸国の防衛という美名のもとに、排他的かつ恣意的に膨大な基地を建設してきました。基地の中に沖縄があるという表現が実感であります。百万の県民は、小さい島で、基地や核兵器や毒ガス兵器に囲まれて生活してきました。
違いがあって、それで政府のやり方と沖縄県のやり方が合わないことは、これまでも、屋良朝苗さんを筆頭にして、屋良朝苗さん、そして、今までに七人の県知事が生まれましたけれども、そのうちの半分は革新県政でありますから、全く政府の考え方と合わない人がいることだけは間違いないんです。
沖縄のいわゆる復帰前の弁務官時代に、キャラウェイの圧制に屈せずに沖縄の県民は自らの代表を自ら選ぶ主席公選制を取って、そして屋良朝苗氏が誕生したという経緯があります。
、ドルと円を交換するときも、三百六十円、世界じゅうからドルが沖縄に入ってきて交換されないように最大限の配慮をしながら交換をやったとか、沖縄電力の上場も、補助金をもらっている企業を上場させるのは大変だから、それをどうやってうまく沖縄県民のためにやるのかというのは大変だったと、さまざまな大変なことを言っているんですけれども、山中先生がこの本の中で書いているのは、一番大変だったのは、自分と思想的に違う屋良朝苗
私はこの本を読んでいて、こんなに違いがある中でも、山中先生、それに佐藤栄作総理大臣は、本当に沖縄の心を持って、考え方の違ういろいろなところに、復帰記念日にも屋良朝苗さんは出なかったんですから、東京の大会に。
後の県知事になるんですが、当時は主席と言っておりました、屋良朝苗主席はこのように言っております。 軍事占領支配からの脱却、憲法で保障される日本国民としての諸権利の回復、そして沖縄県民としての自主主体性の確立、これらが私たち県民にとって全面復帰の持っている内容です、もっと簡単明瞭に言いますと、人間性の回復を願望しているのです、極めて当然な願望であり要求なんですという建議書だったんですね。
そして、みずからも台湾師範学校の出身でありますから、尊敬する政治家を屋良朝苗先生と言い、そして瀬長亀次郎先生を尊敬する、そういうふうなことを沖縄の政治のスタンスでは言っておりました。本土の自民党の政治家の中で、瀬長先生が亡くなっておうちにまで手を合わせに行ったのは山中先生しかいないんではないかと思いますね。 二つ目に、沖縄県民の視点を忘れるなということをよく言っていました。
これは一方で、もう御存じだと思いますが、屋良朝苗さんが代表をされておりましたときに、ここに軍事施設はつくらないということをはっきりさせておりますので、私とすれば、政府と沖縄との間で有効活用という観点で議論はあってしかるべきだ、このように思っております。
下地島空港というのは、もう御承知のことですけれども、一九七一年に当時の琉球政府行政主席屋良朝苗氏と、当時の総理府総務長官山中貞則氏、運輸大臣丹羽喬四郎氏との間に、その空港については民間航空訓練及び民間航空以外に使用させる意思はないということ、そして政府も異存のないことを確認してきました。
祖国復帰時の屋良朝苗沖縄県知事、あるいは二代目の平良幸市沖縄県知事、そして西銘順治県知事、大田昌秀県知事、現在の稲嶺惠一県知事まで、保革を問わず、五人の県知事がこの新石垣空港の建設にかかわってまいりました。
ところが、下地島空港というのは、沖縄復帰のときに屋良朝苗さん、当時の琉球政府の行政主席と、それから当時の総理府総務長官山中さん、この前お亡くなりになりました山中さん、それから運輸大臣の丹羽喬四郎さん、この合意がありまして、どういう合意かというと、運輸省としては同訓練飛行場を民間航空訓練及び民間航空以外の目的に使用させる意思はなく、また民間航空訓練及び民間航空以外の目的に使用させることを管理者である琉球政府
私は、今の運用局長が言っている当時の、三十年前の屋良朝苗知事と山中当時の総務庁長官が押した印鑑、自衛隊と米軍機には使わせないというふうなことが書かれておりますけれども、三十年間たった今、沖縄の全体の現状を考えたら、それはもう是正をしていかなければならない。
そのとき一番御指導いただきましたその一人は屋良朝苗先生でございまして、沖縄教職員会の会長をされておられたわけであり、その屋良先生とも特別な御関係があったということは承知をいたしておりましたが、今申し上げたように、コザの市長をされておられました。
その一人は、初代任命主席の比嘉秀平氏、もう一人は、先ほどから話が出ております沖縄教職員会会長の屋良朝苗氏です。このとき、日の丸掲揚に比較的冷淡なといいますか、冷静な対応を示して、当時マスコミからも批判されました比嘉秀平主席とは対照的に、この日の丸を熱烈歓迎したのが、後に最後の任命主席、最初の沖縄公選知事になる屋良朝苗当時の教職員会会長でありました。
私の体験上から申し上げますと、昭和三十年代に、実は沖縄復帰運動に学生として取り組んでおりましたときに沖縄県に参りまして、当時の教職員会は、会長は屋良朝苗先生、事務局長が喜屋武先生でございまして、当時、まだ米国の施政権下にありまして、日の丸を国旗として掲揚することが許されざる状況でありまして、祝祭日等に当たりましては、紙に書いた日の丸を一本のみならず一家に数本上げて祖国復帰を願ったという心情も私は承知
○照屋寛徳君 官房長官、ここに「激動八年 屋良朝苗回想録」というのを持ってまいりました。御承知のように、初代の公選主席、そして初代の沖縄県知事であられました。 一九六九年十一月二十二日に佐藤・ニクソン会談で七二年沖縄返還が合意に達した。そして、歴史的な日米共同宣言が発表されました。それを受けて、十一月二十六日に佐藤総理一行が羽田に戻ってくる。
屋良朝苗、平良知事のころは、二十三万六千円伸びているのですね。 だから、数字でありますから、さっき大臣が言ったように数字はうそをつかないですけれども、ちょっと沖縄の振興に関する効果を引っ張り出し切れてない状況が、この五、六年、沖縄の中に生まれてきているのじゃないかなというふうに思うのです。
そこで、去る二月十四日に亡くなられた屋良朝苗さん、沖縄教職員会を率い、さらには琉球政府の主席、そして復帰後は初代の知事として文字どおり祖国復帰のために、また沖縄の再建のために献身をされた方でありまして、まさに沖縄の心を体現されている方と。私も、屋良さんが沖縄県遺族会の副会長もお務めでございましたので、お目にかかる機会もあり、尊敬申し上げてきたわけであります。