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42件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

2019-10-24 第200回国会 衆議院 安全保障委員会 第2号

日米政府が一九七二年の沖縄返還合意したのは、実は一九六九年の佐藤ニクソン会談ですが、この会談に先立って、当時の琉球政府屋良朝苗主席は、佐藤総理大臣に訴える、このように題する意見書を提出しております。  そこでも、異民族支配のもとで県民が体験した試練と苦しみに触れて、復帰のあるべき姿として、即時無条件全面返還を求めています。

赤嶺政賢

2018-12-05 第197回国会 参議院 政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会 第3号

このような中、米国も妥協せざるを得なくなり、一九七二年の復帰に先立つ一九六八年十一月十日、初めての行政主席選挙主席公選が実現し、屋良朝苗氏が初の公選主席に選出されました。このときの投票率は八九・一一%に上りました。一九六八年、私は高校二年生でしたが、復帰の四年前まで、沖縄では県知事選挙に当たる行政主席選挙権すら認められていなかったことを是非改めて知ってほしいと思います。  

伊波洋一

2016-11-25 第192回国会 衆議院 安全保障委員会 第4号

それはまた、当時の琉球政府屋良朝苗主席政府に宛てた建議書を携えて羽田空港におり立った、そのときであります。一九七一年十一月十七日のことです。  その後の十一月二十四日、強行採決に抗議して、瀬長、安里両議員、当時の社会党と共産党が欠席するもとで衆議院本会議が強行され、協定は可決、参議院に送付されました。  

赤嶺政賢

2015-05-07 第189回国会 衆議院 憲法審査会 第2号

初の公選主席沖縄返還の課題に取り組んだ屋良朝苗主席は、政府に提出を用意していた建議書に、次のように述べています。  アメリカは沖縄に、極東の自由諸国の防衛という美名のもとに、排他的かつ恣意的に膨大な基地を建設してきました。基地の中に沖縄があるという表現が実感であります。百万の県民は、小さい島で、基地や核兵器や毒ガス兵器に囲まれて生活してきました。

赤嶺政賢

2015-03-03 第189回国会 衆議院 予算委員会 第13号

ドルと円を交換するときも、三百六十円、世界じゅうからドル沖縄に入ってきて交換されないように最大限の配慮をしながら交換をやったとか、沖縄電力の上場も、補助金をもらっている企業を上場させるのは大変だから、それをどうやってうまく沖縄県民のためにやるのかというのは大変だったと、さまざまな大変なことを言っているんですけれども、山中先生がこの本の中で書いているのは、一番大変だったのは、自分と思想的に違う屋良朝苗

下地幹郎

2013-02-12 第183回国会 衆議院 予算委員会 第4号

後の県知事になるんですが、当時は主席と言っておりました、屋良朝苗主席はこのように言っております。  軍事占領支配からの脱却、憲法で保障される日本国民としての諸権利の回復、そして沖縄県民としての自主主体性の確立、これらが私たち県民にとって全面復帰の持っている内容です、もっと簡単明瞭に言いますと、人間性回復を願望しているのです、極めて当然な願望であり要求なんですという建議書だったんですね。  

玉城デニー

2012-03-21 第180回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第7号

そして、みずからも台湾師範学校の出身でありますから、尊敬する政治家屋良朝苗先生と言い、そして瀬長亀次郎先生を尊敬する、そういうふうなことを沖縄政治のスタンスでは言っておりました。本土の自民党の政治家の中で、瀬長先生が亡くなっておうちにまで手を合わせに行ったのは山中先生しかいないんではないかと思いますね。  二つ目に、沖縄県民の視点を忘れるなということをよく言っていました。

下地幹郎

2005-03-30 第162回国会 衆議院 外務委員会 第4号

下地島空港というのは、もう御承知のことですけれども、一九七一年に当時の琉球政府行政主席屋良朝苗氏と、当時の総理府総務長官山中貞則氏、運輸大臣丹羽喬四郎氏との間に、その空港については民間航空訓練及び民間航空以外に使用させる意思はないということ、そして政府も異存のないことを確認してきました。  

赤嶺政賢

2004-03-25 第159回国会 参議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第3号

ところが、下地島空港というのは、沖縄復帰のときに屋良朝苗さん、当時の琉球政府行政主席と、それから当時の総理府総務長官山中さん、この前お亡くなりになりました山中さん、それから運輸大臣丹羽喬四郎さん、この合意がありまして、どういう合意かというと、運輸省としては同訓練飛行場民間航空訓練及び民間航空以外の目的に使用させる意思はなく、また民間航空訓練及び民間航空以外の目的に使用させることを管理者である琉球政府

小泉親司

1999-07-16 第145回国会 衆議院 内閣委員会 第12号

その一人は、初代任命主席比嘉秀平氏、もう一人は、先ほどから話が出ております沖縄教職員会会長屋良朝苗氏です。このとき、日の丸掲揚に比較的冷淡なといいますか、冷静な対応を示して、当時マスコミからも批判されました比嘉秀平主席とは対照的に、この日の丸を熱烈歓迎したのが、後に最後の任命主席、最初の沖縄公選知事になる屋良朝苗当時の教職員会会長でありました。  

比嘉良彦

1999-03-17 第145回国会 参議院 予算委員会 第16号

私の体験上から申し上げますと、昭和三十年代に、実は沖縄復帰運動に学生として取り組んでおりましたときに沖縄県に参りまして、当時の教職員会は、会長屋良朝苗先生事務局長喜屋武先生でございまして、当時、まだ米国施政権下にありまして、日の丸を国旗として掲揚することが許されざる状況でありまして、祝祭日等に当たりましては、紙に書いた日の丸を一本のみならず一家に数本上げて祖国復帰を願ったという心情も私は承知

小渕恵三

1998-08-24 第143回国会 参議院 予算委員会 第4号

照屋寛徳君 官房長官、ここに「激動八年 屋良朝苗回想録」というのを持ってまいりました。御承知のように、初代公選主席、そして初代沖縄県知事であられました。  一九六九年十一月二十二日に佐藤ニクソン会談で七二年沖縄返還合意に達した。そして、歴史的な日米共同宣言が発表されました。それを受けて、十一月二十六日に佐藤総理一行が羽田に戻ってくる。

照屋寛徳

1998-03-18 第142回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第5号

屋良朝苗、平良知事のころは、二十三万六千円伸びているのですね。  だから、数字でありますから、さっき大臣が言ったように数字はうそをつかないですけれども、ちょっと沖縄の振興に関する効果を引っ張り出し切れてない状況が、この五、六年、沖縄の中に生まれてきているのじゃないかなというふうに思うのです。

下地幹郎

1997-04-14 第140回国会 参議院 日米安全保障条約の実施に伴う土地使用等に関する特別委員会 第3号

そこで、去る二月十四日に亡くなられた屋良朝苗さん、沖縄教職員会を率い、さらには琉球政府主席、そして復帰後は初代知事として文字どおり祖国復帰のために、また沖縄の再建のために献身をされた方でありまして、まさに沖縄の心を体現されている方と。私も、屋良さんが沖縄遺族会の副会長もお務めでございましたので、お目にかかる機会もあり、尊敬申し上げてきたわけであります。  

板垣正